結論から言うと、就業規則をテンプレートのまま放置しているスタートアップは、申請しようとしている助成金が何であれ、ほぼ確実に複数コースで同時に詰む。
私が年間100件超の助成金を処理する中で気づいたのは、「相談に来る企業の約7割が就業規則を厚生労働省のモデル就業規則か、設立時に拾ったどこかのテンプレートのまま使っている」という現実だ。そしてこのテンプレート放置こそが、キャリアアップ助成金・両立支援等助成金・人材開発支援助成金の3制度で同時多発的に不支給を引き起こす根本原因になっている。
個別の助成金コースの問題として各記事で解説してきたが、今回は横断的な構造として一度整理する。就業規則を先に整えれば、複数の助成金コースに一括で対応できる。これが本筋だ。
就業規則の雛形放置が引き起こす3つの横断的不支給構造
構造①:キャリアアップ助成金(正社員化コース・賞与退職金制度導入コース)
キャリアアップ助成金の正社員化コースでは、正社員転換の6ヶ月前から助成金要件を満たした就業規則が適用されていることが必須要件だ。テンプレートの就業規則には通常、有期契約社員と正規社員の区分が明確に定義されておらず、正社員転換規程も「別途定める」の一文だけで実体がない。
不支給になる主なパターンは3つ:
- 正社員転換規程の不在・実体なし:転換の基準・条件が就業規則に明記されていない(「別途定める」では要件を満たさない)
- 有期契約社員の定義が曖昧:試用期間付き正社員と有期契約社員を混同している(試用期間付き正社員は無期契約であり助成金対象外)
- 賞与規定の「支給しないことがある」表記:賞与・退職金制度導入コースでは「業績によって支給しないことがある」という雛形的表現は原則不支給の建付けと判断される
賞与規定については、「原則として支給する」という明確な表現に変更しなければ、賞与・退職金制度導入コース(最大56.8万円)に申請すらできない。
構造②:両立支援等助成金(育休・介護各コース)
スタートアップでよくあるのが、育休発生後に「助成金があると聞いて来ました」という相談だ。しかし両立支援等助成金は事前の就業規則整備が前提で、育休が発生してから就業規則を整備しても助成金の要件を満たせないコースがある。
令和7年10月から施行された育児・介護休業法の「柔軟な働き方を実現するための措置」(3歳から小学校就学前の子を養育する労働者向けの5つの措置から2つ以上の選択制度)は、就業規則への明文化が義務。この法改正への未対応が、介護離職防止支援コースでの不支給直結ポイントになっている。
具体的には:
- 柔軟な働き方選択制度の未規定:介護支援プランに盛り込んだ措置(テレワーク・フレックス等)が就業規則に規定されていないと助成金の対象措置と認められない
- 育児休業規定の法改正未対応:出生時育児休業(産後パパ育休)の手続き要件(申出期限2週間前)が就業規則で正しく設定されていないと、子育てパパ支援助成金で雇用環境整備措置の数が変わる
- 業務代替手当の未規定:育休中等業務代替支援コースの手当支給等(最大125万円)では、育休中の業務代替手当が就業規則に規定されていることが受給の前提
構造③:人材開発支援助成金(リスキリング支援コース)
事業展開等リスキリング支援コースは令和8年度が最終年度だ。計画届の提出から研修実施、修了、キャリアアップ助成金との連携申請まで逆算スケジュールが必要だが、そもそも教育訓練規程が整備されていないスタートアップは計画届を正しく作れない。
雛形の就業規則には「必要に応じて研修を実施する」程度の記載しかなく、教育訓練の対象者・期間・費用負担・訓練期間中の賃金取扱いが明記されていない。これでは計画届の記載事項と就業規則の整合性が取れず、審査を通らない。
なぜスタートアップは就業規則を後回しにするのか
スタートアップの文化は「まず動く、整えるのは後」だ。これは事業開発では正しいが、労務制度では致命的に噛み合わない。
私自身、独立3年目に助成金案件だけで売上の8割を作っていた時期がある。あの頃の私はクライアントに「この助成金が取れます」という話から始めていた。あるクライアントから「制度より助成金の話ばかりしますね」と言われて気づいた。助成金は人事制度を整えた結果として付いてくるものだ。順番が逆だった。
就業規則を整えることは、助成金の申請準備ではない。会社の人事の土台を作ることだ。その土台の上に、助成金という副産物が積み上がる。
就業規則を一括整備する5点チェックポイント
制度を先に整えてから申請する。この順番を守れば、複数の助成金コースに横断的に対応できる。以下が就業規則整備の最優先5点だ。
| チェックポイント | 対応する助成金コース | 放置した場合のリスク |
|---|---|---|
| ①正社員転換規程・有期契約社員の定義 | キャリアアップ助成金(正社員化コース) | 転換しても申請不可、過去分も問われる |
| ②賞与規定の「原則支給」への明確化 | キャリアアップ助成金(賞与・退職金制度導入コース) | 賞与を払っても助成金対象外 |
| ③育児介護休業関連規定の最新法令対応(2025年10月改正含む) | 両立支援等助成金(全コース) | 育休が発生しても複数コースで不支給 |
| ④教育訓練規程の整備(計画的付与・リスキリング対応) | 人材開発支援助成金(リスキリング支援コース) | 計画届の記載と整合が取れず審査落ち |
| ⑤手当の定義・支給条件の明記 | キャリアアップ助成金(3%賃金アップ要件) | 就業規則未記載の手当は3%計算に含められない |
一括整備の逆算スケジュール
シリーズBに上がった直後が最も適したタイミングだ。採用を拡大する前に就業規則を整備できれば、全ての採用分が助成金の対象になる。
- M-8週:現状診断:既存の就業規則と5点チェックリストを照合。不足規定を洗い出す
- M-6週:改定案作成:正社員転換規程・賞与規定・育介規定・教育訓練規程・手当定義を一括作成
- M-4週:キャリアアップ計画書届出:就業規則改定の前日までに届出必須(6月は届出集中で処理遅延リスクあり)
- M-2週:就業規則改定・労基署届出:10人以上の事業所は労働基準監督署への届出義務
- M週:社内周知・運用開始:周知なき就業規則は法的効力なし、Slackでも可
IPO準備中のスタートアップはこれに加え、就業規則改定と運用記録をセットで管理する体制が必要だ。助成金申請書類はIPO労務監査で掘り返される。就業規則と申請書類の整合性が取れていなければ、N-2期の労務DDで指摘を受ける。
以前、シリーズBのSaaS企業から「キャリアアップ助成金を狙いたい」と相談を受けた。社員30名、就業規則は設立時の雛形のまま。正社員転換規程も、賞与規定も、育介規定も全て不備だった。3週間で正社員転換規程・教育訓練規程・賞与規定を一括整備し申請した結果、1,500万円の採択を得た。助成金が副産物として付いてきた結果、就業規則が整い、社内のルールが明確になり、採用面接でも「ちゃんとした会社」として機能するようになった。
まとめ:就業規則は「整えてから申請」が唯一の正解
就業規則の雛形放置は、1つの助成金コースを詰まらせるのではない。複数コースを同時に無効化する。正社員化コース・賞与コース・両立支援コース・リスキリングコース、全てが就業規則という同じ土台の上に立っている。
助成金の申請相談が来るたびに、私は必ず最初に聞く。「助成金より先に、人事課題は何ですか?」就業規則を整えることが答えになることが、ほとんどだ。
よくある質問(FAQ)
Q1. 従業員10人未満のスタートアップでも就業規則の届出が必要ですか?
労働基準法上、就業規則の作成・届出義務は常時10人以上の従業員を使用する事業場に課されています。ただしキャリアアップ助成金では10人未満の事業所でも就業規則を作成し、労働基準監督署に届け出ることが申請要件として求められます。助成金を狙うなら、従業員数にかかわらず整備してください。
Q2. 既に雛形の就業規則で助成金を申請してしまった場合、過去分は問題になりますか?
すでに受給済みの助成金については、受給時の審査を通過しているため原則として問題になりません。ただしIPO労務監査では過去の申請書類と就業規則の整合性が精査されます。「転換規程がない状態でキャリアアップ助成金を受給した」という事実が、有期契約運用の合理性を問われる端緒になることがあります。
Q3. 就業規則の整備と助成金申請、どちらを先に始めるべきですか?
必ず就業規則の整備が先です。キャリアアップ助成金では転換の6ヶ月前から要件を満たした就業規則が適用されている必要があります。また、キャリアアップ計画書の届出は就業規則変更日の前日までに完了させる必要があります。「まず申請、就業規則は後で」という順番で動くスタートアップが最も不支給になります。
Q4. 育児介護休業法2025年10月改正分への未対応がある場合、今から対応しても間に合いますか?
令和7年10月以降に育休取得が発生している場合、改正対応が済んでいない就業規則での両立支援等助成金の申請は困難です。ただし今から就業規則を改定し、法改正後の運用実績を積むことで次の育休・介護休業発生時から助成金に対応できます。改定を後回しにする理由はありません。
Q5. 就業規則の一括整備にはどのくらいの費用・期間がかかりますか?
スタートアップ専門の社労士に依頼した場合、基本的な整備(正社員転換規程・賞与規定・育介規定・教育訓練規程)で通常3〜6週間、費用は事務所によりますが20〜50万円程度が目安です。就業規則整備の費用は、1件の助成金受給額(40〜80万円以上)を大きく下回ります。コストではなく投資として捉えてください。





