「パートさんの時給を5%上げた。さっそくキャリアアップ助成金を申請しよう」——そのスタートアップに、私は毎回同じことを伝えている。改定する元の賃金規定が就業規則に存在しないと、申請そのものができません。
結論から言うと、キャリアアップ助成金の賃金規定等改定コースは「個別の雇用契約書で時給を決めていた企業」が最も詰まるコースだ。「賃金を上げた」という事実だけでは申請できない。就業規則に有期雇用労働者の賃金テーブルが既に存在していて、それを3%以上増額改定することが申請の絶対条件だ。
年間100件超の助成金を処理する中で、このコースで詰まるスタートアップには3つの共通パターンがある。今回はその構造を整理し、昇給制度加算20万円の取り逃しゼロを目指すスケジュールまで解説する。
賃金規定等改定コース(令和8年度)の基本設計
まず制度の全体像を押さえておこう。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 支給対象 | 有期雇用労働者・無期雇用労働者(非正規雇用) |
| 主要件 | 有期等労働者の賃金規定等を3%以上増額改定し、6か月以上運用 |
| 支給額(1人当たり) | 3%以上5%未満:4万円/5%以上:7万円(中小企業) |
| 昇給制度加算 | 1事業所あたり20万円(大企業15万円)・1回限り |
| 申請期限 | 賃金改定から6か月経過後2か月以内 |
「1人7万円 × 人数分 + 昇給制度加算20万円(1回)」という設計だ。契約社員10名に5%賃上げを適用すれば70万円 + 20万円 = 90万円が視野に入る。ただし、以下の3パターンを踏むと申請がゼロになる。
パターン1:改定する「元の賃金規定」が就業規則に存在しない
スタートアップでよくあるのが、「パートや契約社員の時給は面接で話し合って個別に決めている、就業規則には書いていない」というケースだ。
賃金規定等改定コースは、就業規則または別規程に有期雇用労働者の賃金テーブルが既に存在していて、それを「改定=3%以上増額」することが支給要件になっている。賃金テーブル自体が存在しない場合、「新設」になるためこのコースでは申請できない。
先日、シリーズBのSaaS企業から「契約社員5名の時給を一律50円上げた。助成金を申請したい」という相談が来た。就業規則を確認すると、有期雇用労働者の賃金規定が一切なく、全員が個別交渉で時給を決めていた。制度を先に整えてから賃上げを実施する順序が必要で、今回の賃上げ分は助成金の対象外になった。
対策:有期雇用労働者用の賃金テーブルを就業規則に新設し、次の賃金改定に向けて制度を先行整備すること。賃金テーブルの新設は正社員化コースや賞与・退職金制度導入コースの土台にもなるため、一括整備が最も効率的だ。
パターン2:昇給制度加算は「1事業所1回限り」を見落とす
昇給制度加算の20万円を「毎年もらえる」と思い込んでいるスタートアップが多い。正確には1事業所あたり1回限りだ。
昇給制度加算を受けるには、雇用するすべての有期雇用労働者等に適用される昇給制度を「新たに規定」することが要件になっている。つまり、既に何らかの昇給制度が就業規則にある企業は、この加算の対象外になる可能性がある。
スタートアップが陥るパターンは次の2つ:
- ①タイミングのズレ:賃金テーブルを新設した初回申請時に昇給制度加算の存在に気づかず、次回以降に取ろうとしたら「1回限り」で終わっていた
- ②新設要件の不満足:昇給制度加算を意識せずに就業規則を改定し、「新規規定」ではなく「既存規定の変更」として処理されてしまった
対策:賃金テーブルを新設するタイミングで同時に昇給制度を就業規則に「新たに規定」する。この1回のチャンスで昇給制度加算20万円を取る設計が必須だ。「後でやればいい」は1事業所1回限りの制度では通用しない。
パターン3:固定残業代を含めた賃金総額で3%を計算する
「月給30万円(固定残業40時間含む)→ 月給31万5千円に改定。5%アップだから7万円の助成金が取れる」——この計算は誤りだ。
賃金規定等改定コースの3%計算は基本給を含む所定内賃金が比較対象だ。固定残業代は時間外労働の割増賃金であるため、算定基礎から除外して比較することが求められる。固定残業代を除いた実質の基本給部分だけを比較すると3%に届かないケースが頻繁に発生する。
さらに、就業規則に支給要件・金額が明記されていない「実態支給の諸手当」は3%計算に含められない。慣行的に毎月渡している手当、個人裁量で上乗せしている手当は算定対象外となる可能性が高い。
対策:申請前に「固定残業代を除外した基本給ベース」で3%を試算すること。就業規則に明記されている手当のみを算定対象として確認する。支給申請前であれば労働条件通知書の修正でリカバリーできる場合もある。
賃金テーブル先行整備の逆算スケジュール
制度を先に整えてから賃上げを実施する、これが鉄則だ。以下が標準的な逆算フロー:
- Step 1(今すぐ):就業規則に有期雇用労働者の賃金テーブル・昇給制度を「新設」する(社労士と連携)
- Step 2(賃金改定の前日まで):キャリアアップ計画書を管轄の労働局・ハローワークに届出(取組実施日の前日までが絶対期限)
- Step 3(計画書届出後):賃金改定を実施(固定残業代を除外した基本給ベースで3%以上を確認済みのもの)
- Step 4(改定後6か月間):改定後の賃金規定を運用(定額支給の諸手当を減額しないよう注意)
- Step 5(6か月経過後2か月以内):支給申請(賃金台帳・就業規則・出勤簿等の書類を一括準備)
特にStep 2のキャリアアップ計画書は賃金改定の実施前日までに届出が必須だ。「賃上げしてから手続きを整えよう」というスタートアップのスピード文化と、助成金の事前手続き要件は本質的に噛み合わない。採用・賃上げに関する意思決定があった当日にSlackの社労士チャンネルで共有する体制があれば、後出しによる不支給はほぼゼロになる。
正社員化コースとの一石二鳥設計
就業規則の一括整備を実施するなら、正社員化コースとの併用設計も検討したい。
| 整備内容 | 活用できるコース |
|---|---|
| 有期雇用労働者の賃金テーブル新設 | 賃金規定等改定コース(次回改定時から) |
| 昇給制度の新規規定 | 昇給制度加算20万円(1事業所1回限り) |
| 正社員転換規程の整備 | 正社員化コース(40〜80万円/人) |
| 賞与規定の新設 | 賞与・退職金制度導入コース |
IPO準備中のスタートアップなら、この就業規則の一括整備がN-2期の労務監査でも機能する。助成金は副産物として付いてくるという発想で制度を整えると、結果として助成額が最大化される。制度を先に整えてから申請を考えるスタートアップと、申請しながら制度を整えようとするスタートアップでは、3年後の助成金受給総額に大きな差が出る。
よくある質問(FAQ)
Q1. 賃金テーブルを新設した当年に賃金規定等改定コースを申請できますか?
新設は「改定」ではないため申請できません。新設後、次の賃金改定(3%以上の増額)を実施してから6か月経過後に初めて申請可能になります。今年新設するなら、来年以降の改定タイミングで申請する計画を立ててください。
Q2. 昇給制度加算の「1事業所1回限り」とはどういう意味ですか?
同じ事業所(同一の事業場)では、昇給制度加算を受けられるのは一生に1回だけです。支店・営業所が複数ある場合は事業所ごとに1回ずつ受けられますが、各事業所での昇給制度の「新規規定」が必要です。
Q3. 全員の時給を上げる必要がありますか?
同一の賃金規定等(賃金テーブル等)に属する有期雇用労働者全員への適用が必要です。個別交渉による一部のみ適用では要件を満たしません。ただし、賃金規定等の適用グループを合理的に区分して設計することも可能です。
Q4. キャリアアップ計画書はいつまでに提出すれば良いですか?
取組実施日(賃金改定日)の前日までに管轄の労働局またはハローワークへの提出が必要です。賃金改定後の後出し届出では申請不可となります。採用や賃上げ決定の当日にSlackで社労士に共有する仕組みがないと、ほぼ確実に後出しになります。
Q5. 固定残業代を設定している場合、3%計算はどうすればよいですか?
固定残業代(時間外割増賃金相当分)を除いた所定内賃金(基本給等)部分で比較します。固定残業代を含んだ月給では「見かけ上5%アップ」でも、基本給ベースでは3%未満になるケースがあります。申請前に必ず固定残業代を除外した計算で確認してください。






